新元号発表の菅官房長官ですが、
SNS上では「ガースー」の愛称で
愛され?キャラな方です。
実際はどんな経歴の方なのでしょうか?
菅官房長官の経歴とは?
髪型が話題になったりしていますが、
とても地道な方のようです。
経歴をまとめてみました。
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Contents
- 菅官房長官プロフィール
- 生い立ち
- 横浜との関係
- まとめ
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プロフィール
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- 生年月日:1948年12月6日(70歳)
- 出生地:日本 秋田県雄勝郡雄勝町(現:湯沢市)
- 出身校:法政大学法学部政治学科卒業
- 前職:段ボール工場作業員 / 建電設備株式会社社員 / 衆議院議員小此木彦三郎秘書 / 横浜市会議員
- 現職:衆議院議員 / 内閣官房長官 / 沖縄基地負担軽減担当大臣 / 拉致問題担当大臣
- 所属政党:自由民主党(小渕派→古賀派→無派閥)
- 称号:法学士(法政大学・1973年)
- 配偶者:一般女性
テレビ越しで見ていても、笑った顔など安心感を覚える
ちょっとかわいい感じのする方だなあと思っていました。
ご本人曰く「堅物」とのことです。
人と話すときもあまり自分からは喋ることはなく、
学生時代からも目立たない生徒でした。
どちらかというと殻に閉じこもるタイプで、
自分でも地味で真面目な性格だと言っています。
[box class=”box1″ title=””]官房長官の立場もあり嘘や冗談は控えていると答えている。[/box]
とどこまでも生真面目な性格のようですね。
ふざけすぎてる政治家が多いなか、こうゆうところは
ネットでも「ガースー」となじみを持ってもらえる
ところではないでしょうか。
また堅物が笑顔を見せると、人の何十倍も人が好さそうに
見えるし、ちょっとかわいくもありますw
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1996年
第41回衆議院議員総選挙に神奈川2区から
自民党公認で出馬しました。
大接戦の末、初当選を果たしました。
1998年
自由民主党総裁選挙で同派閥を退会します。
師と仰いでいた梶山静六を支持してのことです。
2000年
第2次森内閣不信任決議「加藤の乱」では
加藤紘一らに同調して不信任案の採決では欠席をします。
加藤派分裂では親加藤派の小里派(会長:小里貞利)ではなく、
反加藤グループの堀内派(会長:堀内光雄)に参加をしました。
[box class=”box23″]加藤の乱とは?
2000年11月末に起きた政変。
自民党宏池会会長(当時)で、幹事長経験者の加藤紘一が、野党が提出した森喜朗総理に対する不信任決議案に乗ろうとするも、断念した事件。
不信任案そのものは通らなかったものの、森退陣を明確に方向付け、小泉内閣成立へとつながることになる。[/box]
安倍が最も信頼する側近の1人」と言われています。
第1次安倍内閣が閣僚のスキャンダルや問題発言などで
混乱をしていた中でも、存在感を確立していきました。
ご存知のところでは、ふるさと納税の提唱や、
年金記録問題における省内委員会の設置を行う等、
閣僚のスキャンダルが続出した第1次安倍内閣でありながら
安定した存在感を発揮しました。
ここで菅官房長官の絶対的な評価が
されたゆえんですね。
総務副大臣、総務大臣と経歴を積み、
2012年12月に、第2次安倍内閣の発足に伴い、
内閣官房長官に任命されました。
内閣官房長官の在職期間は歴代1位の在職日数を記録しました。
それほど信頼度が高かったのですね。
生真面目で余計なことをべらべら喋らない実直さが
国民にも認められてるように思います。
悪い感じしないですものね。
しかも官房長官の会見などでは、
「鉄壁のガースー」という異名がつくほど
真面目一徹さが表れています。
生い立ち
秋田県雄勝郡秋ノ宮村(後の雄勝町、現:湯沢市秋ノ宮)の農家に
長男として生まれました。
家族は父、母、姉2人、弟1人です。
父親が営んだ農業で「秋の宮いちご」という
ブランド化に成功をし、生産出荷組合組合長や、
雄勝町議会議員、湯沢市いちご生産集出荷組合組合長などを
されていて、93歳で他界されています。
秋の宮いちごって食べた事ないのですが、
酸味と甘みのバランスがとてもおいしいと
聞きます。
凄腕のお父様です。
母親や叔父、叔母は元教員であり、
2人の姉も高校教諭というスゴイ
賢そうな家族です。
家族揃って、真面目なんでしょうね。
上京後
菅官房長官自身は教員になりたいと
思っていなかったという事で、進学を進められても断り、
高校卒業とともに、集団就職で上京をしました。
「東京へ行けば何かが変わる」と思って上京
したそうです。
いつの時代も田舎から東京への希望や夢は
みんなが持つもんなんですね。
わたしも持って上京しましたものw
ですが、現実は、秋田時代と変わらぬ日々を
板橋区の段ボール工場で働きながら地道な生活を
していたのです。
官房長官が段ボール工場とか、苦労人ですね。
工場で働きながら学費を稼いで、一番学費が安かった
法政大学法学部政治学科へ進学しました。
1973年に法政大学法学部を卒業したのち、
建電設備株式会社(現:株式会社ケーネス)に
就職をしました。
政治への道
1975年、政治家を志して法政大学出身の
第57代衆議院議長中村梅吉秘書を紹介され、
同じ派閥だった衆議院議員小此木彦三郎の秘書と
なったのをきっかけに政治の世界へ足を踏み入れました。
秘書は11年間務めました。
真面目な性格に合っていたのかもしれませんね。
1983年、小此木の通商産業大臣就任に伴い
大臣秘書官を務めることになります。
ここから政治家への道が開かれて
今現在、実は影の総理大臣と言われても
おかしくないくらいの、存在感がありますね。
安倍の片腕と言われていますが、自分の意志を
貫き通す強い性格のようなので、ひっそりこっそり
何かをやり遂げてほしいなと思います。
横浜との関係
横浜との関係は、1987年、横浜市会議員選挙に西区選挙区から出馬し、
初当選をした場所だったため、菅=横浜のイメージがついたようです。
市議を2期務めて、その当時、横浜市政に大きな影響力を持っていた
小此木の死後、当選回数わずか2回にも関わらず、
小此木の事実上の代役として活躍をしました。
高秀秀信市長から人事案などの相談を頻繁に受けるなど、
「影の横浜市長」と呼ばれるまでになりました。
横浜との関係はこうして生まれていったんですね。
しかし影の横浜市長ってwww
さすがガースーです。